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 04 窓からのぞいたその顔に

たとえばこんな10のキス

01 教室の隅っこで
02 夕焼けが見てる
03 道のど真ん中で
04 窓からのぞいたその顔に
05 公衆の面前で
06 水中で
07 雪の降る中で
08 びしょ濡れになって
09 覆いかぶさって
10 良い夢を 

SCHALK. 様
 http://schalk.xii.jp/

より 04番



04 窓からのぞいたその顔に


 「……今週は気が滅入るから……」
 春が来た。
 「……魔法楽器の練習につき合えない」
 天はおぼろに煙り、空気は輪郭を失う。
 「会うことは、できない」
 淡雪がそう告げると、根本はその緑眼を丸くして、さも不思議そうに言ったのだった。
 「気が滅入るって、何で分かってンだ?」

 桜が咲いている。
 それだけでも、気が滅入るというものだ。
 けれど根本にそんなことを言ったところで伝わる気がしない。うまく説明できるだけの話術も、淡雪にはなかった。
 
 教室の窓を開けると薄紅色の花弁が入ってくるので開けない。
 春休み中の教室は、淡雪以外誰もいなかった。ノートに筆記具、分厚い問題集とくたびれた参考書。机の上には、いつもの戦場が広がっている。
 終業式も済み、休み明けには学年が上がってしまうので、もはやこの教室に淡雪の席はないのだが、どうしてだか習慣で、三学期中使っていた席についていた。
 朝になっても昼になっても夕方になっても、人がいない教室とはありがたい。これほど勉強に適した環境も珍しいだろう。
 「…………」
 そう思うのだが。
 「大問の四、括弧の三……」
 自らを奮い立たせるため、問題集の今解いている箇所を読み上げる。
 「………大問の四……」
 しかし、眼は活字の上を滑るばかりで、全く頭が内容を読み込まない。
 「括弧の三…………」
 しばらく眉間にしわを寄せて、文章をにらみつける。
 「…………」
 そして溜め息をついた。
 淡雪は、自分が勉強に全く集中できていないことを自覚していた。
 自室にいても、病室にいても、図書館にいても、何処にいてもダメなのだ。
 流れ流れて、無人の教室までたどり着いた。それも結局、無駄なあがきらしい。
 ちらりと、横目で窓を見やる。
 教室は二階にあるので、直接桜を目にすることはない。春の埃っぽいすすけた空が見えるだけだ。
 (俺は……)
 右手の鉛筆を強く握りしめる。
 (勉強しないと……いけないのに……)
 爪が、手のひらに食い込んだ。
 この季節以外はいつだって平気なのに。なにが起こったって、何をされたって、一心不乱に勉強することができるのに。
 窓の外は春の風が吹いている気がした。
 生ぬるいその風が、桜の花を空へ天へ、舞上げているような気がする。
 「…………」
 がん!
 淡雪は鉛筆を握ったままのこぶしを、ノートの上へ叩きつけた。ノートはくしゃりと、少しだけ淡雪の手の形にたわんだ。
 (くやしい……)
 苛立ちに任せて物にあたっても、心はいっこうに晴れない。むしろノートに申し訳なかった。普段は戦友ともいえる鉛筆やノートに、こんな風に接してしまう自分がたまらなく情けなかった。
 しかし、どうすることもできないのだ。
 かき乱される。かき乱される。
 胸の奥がかき乱される。
 桜の花が、あたたかい風に舞う、この季節が淡雪は苦手だった。
 春になると思い出すのだ。彼のことを。春に眠りについた、桜の髪の色の兄のことを。

 「ほら、雪みたい」
 窓から入り込んだ白い花弁が、遙風の細く長い指の上に落ちる。
 「……そう……?」
 淡雪はそう思えなくて首を傾げた。
 「……ただの白いはなびら……」
 「白い、か」
 くすりと笑って、遙風は膝に乗せている弟の髪をなでる。
 「淡雪には、白く見える?」
 そう言って、淡雪の髪を撫でている方とは別のてのひらを近づけてきた。そこには貝殻のような楕円の小片が乗せられている。淡雪は灰色の目でそれをじっと見つめた。
 そして黙って頷く。どうみても白だ。
 遙風は微笑んだ。
 「雪みたいだけど。本当はね、白くないんだよ」
 二人は窓辺に座り込んで、遠くに霞む空を見ていた。春の風が色褪せたカーテンを揺らすたび、どこからかその花びらはやって来くる。遙風が散らかるままにしておいたので、部屋の中はちょっとした紙吹雪が撒かれたようになっていた。
 「白いっていうのは、こういう色のこと」
 優しい眼差しで、遙風は淡雪の髪を見る。
 「…………」
 淡雪は自分の髪を触ってみた。コシがなくてふわふわしている。しかし手で掴んでみてもよく見えない。上目遣いにしてみても、前髪がほんのちょっと除く程度だ。
 幼い弟のそんな仕草に遙風は笑う。
 「淡雪の髪は真っ白だから、遠くから見ても白く見えるでしょう」
 そうだろうか。淡雪は考えてみた。たしかに鏡に映る自分の髪は白いかもしれない。けれど、自分の髪が何色であるかなど、気にしたこともなかった。
 「でもほら」
 遙風は自分の髪を手で掴んでみせた。
 「僕の髪は違うでしょう」
 淡雪は肩越しに遙風を見上げた。
 その通りだった。
 兄の髪は白と言えば白なのだが、わずかに淡い桃色をしているのだ。
 「…………うん」
 淡雪は頷いた。遙風は目を細める。
 「僕の髪の毛も、一本だけなら白にしか見えないんだ。けれど、集めると白じゃない。ほんの少しだけ、色がついているんだよ」
 兄の髪をじっと見てから、淡雪は床に散らばる花弁へ視線を移した。
 「……じゃあ、この花びらも集めたら色が見える」
 と、いうことだ。
 いったい何色になるのだろう。
 疑問に思った淡雪は兄の膝から降りて花びらを拾い集める。
 「…………」
 しかし、床にある時はたくさんに見えたそれは、拾ってみると大した量ではなく、淡雪の小さな手のひらに全て収まる位しかなかった。そして集めてみても、それはまだ白色をしている。
 「……白にしかみえない」
 憮然とした淡雪の横で遙風はくすくす笑った。
 「少し、量が足りないかな」
 むう、と不服そうに口を尖らせた淡雪を、いとおしそうに遙風は眺める。
 「淡雪」
 呼ばれて淡雪が見上げると、遙風はその両手を淡雪に向かって差し出していた。
 「ちょうだい」
 その言葉が何を意味するのか分からなくて、淡雪は眼を瞬かせた。
 「……なにを」
 「そのはなびら」
 遙風は微笑んで、優しく言葉を紡ぐ。
 「せっかく淡雪が集めてくれたんだもの」
 手のひらを上に向け、水をすくうように碗の形にして。遙風は笑む。
 「淡雪のさくら、僕にくれる?」
 遙風が何を求めているのか理解して、しかし淡雪は首を傾げた。
 どうしてそんなことがしたいのだろう。せっかく集めたのに、また床が汚れてしまうではないか。それに。
 「……これはおれが集めただけで、おれのというわけじゃない」
 しかし遙風はにこにこと穏やかに笑って、ただ待っている。
 「…………」
 淡雪はそんな遙風の顔を見ていると、自分の体温が少し上がるのを感じた。
 「……うん」
 遙風が望むのなら、理屈なんてどうでもいいではないか。
 淡雪は結局こくりと頷くと、遙風の手の上へ集めた花びらを降らせた。
 「わぁ」
 遙風はそれを嬉しそうに眺める。
 花びらはひらひらと、重力に引かれているのに、しかしゆっくりと遙風の手の中に落ちてゆく。
 「きれいだな。きれいだね、淡雪」
 遙風がそんなふうに喜ぶのはとても久しぶりで、淡雪は胸がどきどきするのを感じた。
 「うん」
 きれいかどうかなんて、淡雪にはこれっぽっちも分からなかったけれど、しっかりと頷いた。肯定したかった。兄が喜ぶ光景を。
 「雪みたいだ」
 手の中にある欠片たちを眺め、遙風は眼を細める。
 先ほどまで本当は白くないなどと言っておきながら、雪だ雪だと言うのは矛盾しているのではないかと思いつつ、淡雪は口にはしなかった。そんなことは些細なことだ。遙風が嬉しいなら、それ以上に大事なことなんてない。
 「……もう一回」
 もっと遙風に笑って欲しくて、淡雪は遙風の手からこぼれ落ちた花たちを拾い集める。
 床の物を集め終わり、遙風の手に残っている物をもらおうとして手を重ねると、そのままその手を包み込まれた。
 驚いて顔を上げると、遙風が薄く笑んでゆるく横に首を振った。
 「ありがとう、もう、いいんだよ」
 眸には、慈しむような、そして同時に悲しむような色が浮かんでいた。
 「……どうして」
 包みこんでくる手は冷たくて、淡雪は自分の手の熱が少しでも彼の手に移ればいいと願った。
 「いいんだ」
 眸を伏せて、遙風はもう一度首を横に振る。
 淡雪は自分の胸の奥がひりひりと痛むのを感じた。遙風が、どうしてこんな色を眸に浮かべるのかが分からなかった。どうしてこんな風に頭を振る必要があるのか分からなかった。自分の手はあまりに小さくて、彼を温めるどころか、包み込むこともできない。
 (……くやしい)
 たまらなく悔しかった。自分の幼さが。無力さが。
 「……なら」
 必死に考えて、言葉を紡ぐ。
 「何色なのか……、見に行こう……?」
 「うん?」
 淡雪の言葉の意味が分からなかったらしく、今度は遙風が首を傾げる。
 「……この白いはなびらが、」
 遙風の気を引きそうな話題を探して、淡雪は彼の桃色の瞳を見つめる。
 「……本当は、何色なのか」
 「…………」
 遙風は目を丸くして、そしてほんの一瞬悲しげに眸を揺らすと、再び眼を伏せて頭を振った。唇にだけ笑みを乗せて。
 「……ちかく、だと思う」
 こんな風に窓から花びらが舞ってくるのだから、すぐそばにその木はあるはずだ。淡雪自身はそんなことに微塵も興味はなかったが、どうしてだか、遙風はとてもその光景を眼にしたがっている気がした。
 花びらが無数に集まってできる春の木。
 そこから雪のようにどこまでも降りそそぐ白い欠片。
 それらが木の上でだけ見せる、隠された真実の色。
 「いこうよ」
 強く、淡雪は言った。
 だが遙風は微笑むだけだった。優しく、しかし頑なに、淡雪の提案を断った。
 「見てきてごらん」
 柔らかな声音で遙風は言った。
 「きっと、すごくきれいだよ」
 見てきてごらん。
 ひとりで。
 口にされなかったその言葉に、淡雪はひどく心を乱された。悔しくて思わず兄の腕にすがる。
 「どうして……? 一緒に……見に行こう?」
 遙風は困ったように微笑んで、淡雪の髪を撫でた。
 「ごめんね。でも僕は」
 ちらりと部屋の扉へと視線を投げる。
 「ここから出られないんだ」
 そしてすぐに、何事もなかったかのように淡雪へ向き直った。微笑んで、だから、ね、と。
 淡雪は兄を見つめた。非難の視線でもなく懇願の視線でもなく、ただ彼の笑顔を見つめた。
 すらとのびた長い睫毛も、陶器のような白い肌も、形のよい唇もそのままなのに。
 兄の笑顔はいつからこんなに、自分を寂しい気持ちにさせるものになったのだろうか。
 「…………うん」
 淡雪は遙風の膝の上からすっくと立ち上がると、靴を半ばつっかけるようにしてすぐそばの玄関から外へ出た。
 アパートの一階。ワンルームの部屋から外へ出ることなど、自分にはこんなにたやすい。
 (外に出られない)
 扉を閉めて、淡雪はうつむく。
 (なんてことが)
 あるの、だろうか?
 しかし、そのことについて遙風に聞いたことはなかった。なぜだか、それは、遙風をひどく悲しませる問いのような気がした。微笑んでいる兄を見ていると、どうしても、口に出すことができないのだ。
 自分の無力さに唇を噛みしめて、下げていた顔を上げる。
 「…………!」
 淡雪は目を見張った。
 そこには晴天の下、ゆるゆると陽光を反射して、満開に花開く桜の木があった。
 「…………」
 家の扉の真ん前にあったのか。
 淡雪は言葉を失ってその木を見つめた。それは美しかった。しかし、なぜだか同時に恐怖も感じさせた。絶え間なく無音で散るちいさな花びらが、あまりにも綺麗で不吉だった。
 (気にしたことなんてなかった……)
 遙風が今日、桜の欠片と戯れているのを目にするまで。学校に行くときも、家に帰ってくるときも、扉の前に桜があるなんてことは淡雪にとって何の意味も持たなかった。
 (こんなものが、なんだというのだろう)
 ただの木じゃないか。
 ただの花じゃないか。
 「…………っ」
 淡雪は駆けだし、桜の木の下へ着くとしゃがみ込んだ。部屋の中に散らばっていたそれの何倍もの花びらたちを、夢中で拾う。
 手の中に収まりきらないほど集め終わると、再び立ち上がり玄関の反対側へ回った。
 「淡雪」
 遙風が驚いた顔をしてこちらを見た。
 狭い部屋だ。玄関の反対側に回れば、あっと言う間に窓側へ着く。
 遙風はまだ窓辺に座って、外を眺めていた。
 「……こっち……」
 心持ち息を荒げながら、淡雪は窓に近寄った。自分の身長は低く、窓辺に立っても、座っている兄の少し上くらいにしか頭がこない。
 「どうしたの」
 「もっと……」
 不思議そうな顔をしている遙風を窓越しに呼び寄せる。
 「淡雪……」
 そして遙風が促されるまま窓から身を乗り出したところで。
 「わっ」
 淡雪は両腕を上げ、結んでいた手を開いた。
 遙風の頭の上から桜の雨が降る。
 さっきとしていることは同じだ。けれど、さっきよりたくさん。遙風の、ほとんど白と同じ髪の上に、華奢な肩の上に、座っている床の上に花びらが降り注ぐ。
 「わぁっ」
 遙風はびっくりしたように肩をすくめ、それから桜にまみれた姿で呆けたように淡雪を見た。
 「う……わ……」
 自分の肩を見、膝の上を見、床を見て、散らばった白い欠片たちを見る。
 「……すごい……」
 そして。
 「……あはは……あははっ」
 声を上げて笑った。
 「すごいすごい、ほんとに、雪みたいだ。あははっ、あはははっ。もう、淡雪。部屋が。掃除が大変だよ。あははは」
 「……さっき、そう言った」
 「だって、量が違うよ。もう、あははっ」
 遙風がこんな風に笑ったのは久しぶりだった。いつも優しく微笑むばかりになってしまった兄の笑い声を、聞いたのはいつぶりだろう。
 「さくら、だらけ」
 「だって淡雪が」
 くすくすと肩を震わせて遙風はまだ笑っている。
 「…………」
 それを見つめて、淡雪はきびすを返そうとした。遙風がこんな風に笑ってくれるなら、何度でも桜の雨を降らせたい。そう願った。何度でも何度でも、家の前の木から全て花を奪ってでも。そう思った。
 「淡雪」
 しかし。
 「いいんだ」
 淡雪は走り出すことができなかった。
 遙風の手が、淡雪の細い腕を掴んで、桜の下へ行くことを許さなかった。
 「な……」
 振り返り抗議の言葉を紡ごうとして、淡雪は驚きに口をつぐんだ。
 腕を引かれ、そのまま引き寄せられる。気がつくと遙風に抱きしめられていた。
 淡雪の肩に遙風の顔が埋められていた。
 「いいんだ……」
 苦しそうに、かすれた声で遙風は言った。
 「ごめん……」
 その肩は微かにふるえていた。
 言うべき言葉を見失ってしまい、淡雪はその場に立ちつくした。
 何か言いたいことがあったはずなのに。
 この人のためならなんでもしたいと、そう思ったばかりなのに。
 自分が何を言いたいのかも、何をしたかったのかも分からなくなってしまった。
 悲しく微笑む兄が寂しくて、彼のためなら何でもしたいと思ったのに、いざこんな姿の兄を目の当たりにしたら、何をするべきなのか分からない。
 遙風の柔らかい髪が、淡雪の頬をくすぐっていた。コシのないその髪は、淡雪の持つ白い髪ととてもよく似ていた。
 「ごめん……」
 遙風はそう言うと、淡雪の額に優しくキスをした。
 そして静かに淡雪から離れる。
 淡雪が兄を見たとき、遙風はもとの優しい笑みをたたえた表情に戻っていた。
 「何色だった?」
 何事もなかったかのように、投げかけられた質問を飲み込むことができず、淡雪は遙風を見つめた。
 「なにいろ……?」
 遙風は唇をほほえみの形にしたまま言う。
 「さくらのはな」
 淡雪ははっとして遙風の足下に散らばっているはなびらたちを見た。
 「たくさん、咲いていたでしょう。淡雪には、何色に見えた?」
 桜の花は恐ろしいほど満開で、陽光を浴びて、春の喜びを享受していた。
 遙風はとても、その光景を目にしたがっているような気がしたことを思い出した。
 けれど。
 「…………」
 淡雪は遙風を見つめて沈黙した。
 何色だったのか、思い出せない。
 たしかに目にしたはずなのに。ついさっき見たばかりのはずなのに。この両手に、溢れんばかりに満ちていたはずなのに。
 何色だったのか、分からない。
 淡雪はその事実に目を見開いた。言葉を無くし。そして。
 「…………っ」
 頬に冷たい物が流れた。
 遙風は優しく微笑んでいる。
 淡雪は、今度は自分から遙風に腕を回した。縋って、声なく泣いた。自分の幼さが、無力さが、悔しくて。
 「……っ、…………っ」
 遙風はその光景をとても見たがっていたのに、見たはずの自分は何も彼に伝えることができない。
 「ごめんね、淡雪」
 遙風の冷たい手が、自分の背中をさすってくれるのを淡雪は感じた。その手に安心してしまう自分が、とてもイヤだった。
 「僕が教えてあげられればよかったんだけれど」
 たった一歩。あの扉を出るだけでいい。ただそれだけで、彼は彼の望む物を目にすることができるのに。
 淡雪はだだをこねる子供のように、抱きしめられたまま首を横に振った。遙風はそんな淡雪の背中をさすり続けた。
 そうし続けながら、ぽつりと言った。
 「桜の色がどんな色なのか、僕はもう、忘れてしまったんだよ」

 ぱたたっ。
 ノートの上に灰色の円いしみが広がって、淡雪は不思議に思った。どうして急に、どこからノートに、水が降ってきたんだろう。
 目頭が熱く、なのに頬は濡れて冷たかった。教室には自分以外誰もいない。
 (勉強……)
 勉強しなくては。無性にそう思った。鉛筆を握り直し、問題集に目を落とす。
 「大問の三……」
 ぱたっ。
 止まっていた箇所を読み上げようとして、その上にも灰色のシミができた。
 「括弧の……」
 それでも無理矢理続けようとして、口を開くと視界が滲んだ。
 「……よ……」
 ぱたたっ。
 「…………っ」
 (字が……)
 読めない。
 涙で目の前がくらんでしまい、問題集の言葉がくみ取れなかった。
 (……何をしてるんだ……。俺は……勉強しないと……勉強して……たくさん勉強して……はやく……)
 勉強しなければ。そう思えば思うほど、涙は溢れて止まらなくなる。
 「…………っ」
 嗚咽を上げそうになる口元に手を当てる。早く勉強したいのに、思い通りにならない自分の体に苛立った。
 (たくさん勉強して……俺ははやく……)
 大人になりたいのに。
 淡雪は机に突っ伏した。
 声を殺して泣いた。制服の袖に、自分の涙が染み込んでいく。情けなかった。
 教室は静かだった。時折自分が漏らすひきつった呼吸音以外、何も聞こえない。
 「…………」
 いや。
 ゆっくりと淡雪は顔を上げた。
 いや、違う。
 何か、聞こえる。
 「…………」
 淡雪は窓の外へと視線を投げた。
 どこか遠くで、音楽が鳴っていた。
 静かな教室の中に、しかし、気がつけば確実に、聴き覚えのある旋律が聞こえる。
 「…………」
 淡雪はふらりと立ち上がり、危うげな足取りで窓側へと歩いていった。
 本当は、窓には近寄りたくない。桜の木が見えてしまうから。
 しかし淡雪は旋律に誘われるかのように、窓へ片手を着いた。
 二階にある教室の真下。そこには木々に囲まれた校庭が広がっている。満開に咲き乱れる薄紅の木々の間に、緑色の髪をした少年が立っていた。
 「根本……」
 思わず彼の名をつぶやく。
 根本は制服を着て、弦楽器を奏でていた。顎で支えて弓で引く、魔法使いの奏でる楽器。
 根本はその場で一曲弾き終えると、楽器を下げてこちらを見上げてきた。
 「!」
 ばちっと音がしたかと思うくらい、根本の視線が淡雪をとらえた。
 彼は地面に置いてあった楽器ケースへ丁寧に魔法楽器をしまうと、桜の木に立てかけてあった箒に颯爽と跨った。楽器はそのままに、ふわりと宙へ浮かぶ。
 「…………」
 (……来る……!)
 淡雪がそう思う間もなく、根本はまっすぐに教室の前まで飛んできた。
 「…………」
 淡雪は驚きに目を瞬かせた。
 窓を挟んで二人は向かい合った。
 「そのうち絶対ェこの教室に来ると思ってたンだよ。このガリ勉ヤロー」
 根本がぶっきらぼうにそう言った。
 「会えないとか宣言しておいて、学校でなにしてやがる」
 「…………」
 勉強。普段の自分ならそう即答できるはずなのに、なぜか淡雪は根本を見つめ返すことしかできなかった。
 「…………どうして……」
 なんとかそれだけ絞り出す。
 「それはこっちのセリフだ。こんなところで閉め切って、ひとりでなに泣いてんだ」
 返された言葉にはっとしてあわてて目元を拭った。泣いているところを根本に見られた恥ずかしさで、顔が熱くなる。
 「今更隠したっておせーよ。菅井、おい」
 「今週は会えないって……言ったはず」
 根本の言葉を遮って淡雪は告げた。根本から目をそらして、彼の視線から逃げるように顔を背ける。しかし根本はまるで動じずに自分を見つめている。
 「とりあえず窓開けろ、俺は」
 「イヤだ!」
 突然淡雪が出した大きな声に、根本は目を丸くした。
 淡雪は手の甲で口元を覆った。根本の前でこんな醜態をさらすのがたまらなく恥ずかしかった。
 「窓は……開けたくない……」
 「なんだよ。おまえ花粉症だったのか」
 「……気が……」
 かすれ声でなんとか言う。
 「滅入ってるんだ……」
 「そんなの、そのひでーツラ見れば分かる」
 「だから……会えない」
 窓を開けると桜の花びらが入ってくるので開けない。
 今週は気が滅入るから会えない。
 いつもまっすぐ前を見ている根本には分からないだろう。
 俯いている姿を見られるのが、恥ずかしいという気持ちなど。
 淡雪はもう一度顔を上げ、睨みつけるように根本を見た。そして言った。
 「会いたくない」
 そう告げた瞬間。
 根本が力任せに片手で窓を開けた。
 春の生ぬるい風が、一気に教室へ入り込み淡雪の白髪を揺らす。
 「……っ……!」
 箒に乗ったまま、根本は窓越しに手を伸ばしてくると淡雪のネクタイを乱暴に掴んだ。
 そのまま強い力で引き寄せられる。
 「…………!」
 淡雪が目を見開くよりも先に、ふたりは唇を重ねていた。
 桜の花びらが、数枚、春の風に乗って二人の横を音もなく舞った。
 どん!
 今度は胸元を乱暴に突き飛ばされて、唇が離れる。
 根本の緑色の眸が、射抜くようにこちらを見ていた。
 「俺は会いたい」
 根本は言った。
 「でも俺は会いたい」
 窓の向こうは明るく白く、春の風が根本の緑髪を揺らしていた。
 根本は窓枠に足をかけると教室へ降り立った。淡雪は後ずさりたい衝動に駆られた。しかし、足はまったく言うことを聞かない。
 「どうして気が滅入ったら会っちゃいけねェんだ」
 淀み無く根本は言った。
 「どうして一人で泣くんだ。一人で泣くな、菅井」
 淡雪はただ立ち尽くしていた。
 「どうして、何が理由で気が滅入るのか言わねぇンだ。どうして言ってくれねぇンだ。知りたいと思うのは、俺の身勝手なのか。それでも俺は、お前が泣いてる理由が知りたい。菅井」
 視界が滲んだ。根本の言葉がまるで眸から入ってくるようだった。
 「一人で泣くな」
 頬に熱いものがひとすじ流れた。根本がそれを指ですくう。
 淡雪は急に脚に力が入らなくなり、ぺたりと床へ座り込んだ。
 「菅井」
 「……勝手……だ……」
 片手で目元を覆い、俯く。
 身勝手だ。
 (どうして……)
 どうして、あの時自分が言えなかったことを、そんな風に言ってのけてしまうんだ。
 「残酷……だ……」
 俺だってそう、言いたかった。
 兄に、遙風に問いただしたかった。どうして、なんで。そう聞きたかった。けれど根本のように言えなかった。兄が泣くのが怖かった。
 「根本は……相手の気持ちを……考えてない……。そんなのは……残酷だ……」
 きっと問うたら、とても遙風は悲しんだに違いないのだ。
 「俺は……こんなところ根本に見られたくなかった!」
 淡雪は顔を上げて根本を睨んだ。
 「こんな……みっともない……」
 「たいして普段と変わんねーよ」
 「違う……全然違う。できないんだ、勉強が。できないんだ……」
 「そうなのか。でも気が滅入るんだろ。じゃあしかたねーじゃねーか」
 淡雪は首を横に振る。
 「いやなんだ……くやしいんだ……! 俺は負けない……はやく大人になりたい……! こんなことどうってことないのに、春が来たくらいで、桜が咲いたくらいで……!」
 「桜がいやなのか」
 「いやじゃない……!」
 「お前な! 気が滅入るから会わないなんて、言い方が半端すぎンだよ! 言うならもっとちゃんと言え!」
 「どう言ったらいいか分からないし、言いたくない……!」
 「じゃあ気が滅入るなんて言うな! 俺がどんなに!」
 怒鳴りつけた後で、今日初めて根本が言い淀んだ。眸を泳がせて、目を伏せる。
 「悪ィ……間違えた。そうじゃ、ねェな」
 「…………」
 「どんなちょっとでもいいから、半端でもいいから言われた方がいい」
 「…………」
 ふたりはしばらく無言で見つめあった。
 根本もしゃがんで床にすとんと座った。
 「…………一人で泣くな」
 「…………」
 しばらく二人でそのまま黙って座っていた。

 日が暮れかけてきた頃、ぽつぽつと、淡雪は根本に話した。
 春が来て桜が咲くのがとてもつらいのだということ。
 気が滅入っている時根本に会うのは、何か負けたような気がして恥ずかしかったこと。
 根本は分からないでもないという顔をした。話しても伝わらないだろうだろうと思っていたそれを、根本がすんなり受け入れたことに淡雪は驚いた。
 「でも俺は会いたい」
 根本は言った。
 遙風のことは話せなかった。
 根本は一週間前から毎日校庭で楽器を弾いていたのだと言った。必ず淡雪は教室に来る、そして旋律を聴けば窓際に来る、そう思ったと言った。
 「桜が咲くと……か」
 根本は窓から入り込んできていた桜の花びらを手にとって眺めた。
 「一枚だけなら、桜と言うより、雪みたいなのにな」
 淡雪は根本の緑色の髪を見ていた。
 春が過ぎて初夏になれば、そういえば桜も根本の髪のような緑の葉を、たくさん茂らせるのだ。 
 涙で腫れてしまった目元が熱い。
 根本を見ながら、ぼんやりとそう思った。

おわり


----------------------------------------------------------
 
 「1つのお題で、2つキスシーンがあっても別にいいんじゃない?」
と思いついてやってみた結果がこれだよ\(´∀`)/
しかし「桜」の中二力はパネェです。こたえました。

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