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 08 びしょ濡れになって

たとえばこんな10のキス

01 教室の隅っこで
02 夕焼けが見てる
03 道のど真ん中で
04 窓からのぞいたその顔に
05 公衆の面前で
06 水中で
07 雪の降る中で
08 びしょ濡れになって
09 覆いかぶさって
10 良い夢を

SCHALK. 様
http://schalk.xii.jp/

より 08番


とってもぬるいので18禁うたうのもおこがましいですが
一応濡れ場がありますので、
18才未満の方の閲覧を禁じます。

 


続きを読む











08 びしょ濡れになって


―――昔読んだ絵本の中で。
きつねは言った。
大切なものは、眸に見えないと。
大切なものは眸に見えないと、賢いきつねはそう言っていたけれど。
それではこの眸に映る総てのものは、果たして一体何なのだろうか。
「どうした。まさかこの程度で目眩でも起こしたんじゃないだろうな」
もしかしたら。
きつねは、嘘をついたのかもしれない。
それはきつねの、優しい嘘だったのかもしれない。
『大切なものは、眸に見えない』
「もう回数も思い出せないくらいしただろう。何を今更、そんな顔をしている」
優しいきつねは言えなかったのだ。
本当は。
大切なものなんて、
「遙風」
この世界の、何処にも存在しないということを。
顎に手をかけられて、床から視界が上へと移る。
遙風の眸に映ったのは、灰色の髪と瞳を持つ、端正な青年の顔だった。
「…………」
「なんだ。何か言いたいことがあるんじゃないのか」
眉一つ動かさず、表情のない整った顔が言う。
すらりとした長身。品のいい服装。育ちの良さを思わせる身のこなしと、血に恵まれた美しい顔立ち。
自分には縁遠い、高貴な世界の空気だ。そう遙風は思う。しかし、その空気はどことなく懐かしくもある。
彼の名は菅井大地。
遙風の母の弟。世間に二人の関係を名付けさせれば、甥と叔父だ。
「…………」
遙風は彼をぼんやり見つめた。口の中の粘った水が苦くて、視界が歪んだ。  
言いたいことなど何もない。
「ああ。黙っているのはそういう訳か」
とても下らないことに気づいたというように、大地は吐き捨てた。
「飲み下せばいいだろう。そんなことも言われないと分からないのか」
苦い。
苦しい。
彼の言葉が耳に届くと、頭の中でわんわんと反響して、眸の奥がぐらぐらする。
耐えられなくて瞳を伏せると、溜まっていた涙が頬にこぼれた。
「それとも床にでも吐き出すのか。弟が帰ってくるこの部屋の床に? 帰ってくるまでに綺麗に掃除でもするというのか。滑稽だな」
全く面白くなさそうに大地が言った。
「…………」
遙風は突然、弾かれたように立ち上がって風呂場へ駆けた。
このアパートは風呂とトイレが同じ空間にある。
遙風は便器の中へ吐き出そうとしたが、結局足がもつれてうまく動けず、風呂の洗い場へ口の中のものを出した。
「……っ、……っ」
自分の唾液と混ざった白濁の粘液が遙風の唇を汚した。寒気と吐き気がした。熱いのに寒い。冷や汗で体が湿っているからだろう。少し眠いような気もする。
「そんなに汚らわしいか? 俺の精液は」
屈み込んだ体勢のまま顔だけ入り口へ向けると、大地が扉へ背を預けて腕を組んでいた。じっと遙風が吐くさまを見ている。
「お前のものと、大して情報は変わらないというのに」
まじめな顔で、そんなことを言う。
皮肉なのか、本気でそう考えているのか。
不思議な人だな。
頭の片隅、意識のとても遠くで、遙風は思った。
「っ……は……」
食道がぎゅうぎゅうすぼまって、喉を外へ押し出そうとしていた。しかし出てくるものは何もない。
右手の甲を口に押さえつけて、なんとかかんとか遙風は息をした。えづくのは苦しい。涙の粒がぽたぽた洗い場へ落ちた。
「遙風」
感情のこもらない声で、彼は自分の名を呼ぶ。
遙風は大地の声に応えず、肩で荒く息をしながら、浴槽に引っかかっているシャワーへと手を伸ばした。もう一方の手で蛇口に取り付く。とにかく、口の中をゆすぎたかった。
大切なものなんて、何もないんだ。
きつねは、とてもよいことを教えてくれた。
蛇口をひねる。水が勢いよく吹き出した。
大切なものなど何もなければ、どんなことが起こったとしても、それに心を砕く必要がない。
この人も、自分も。二人の間のやりとりも、行為も。
何一つ、重要じゃない。
「遙風」
遙風が蛇口からの水を口に含もうとしたところで、唐突に、大地が近寄ってきてシャワーを乱暴に奪った。
「なっ」
遙風が声を上げる間もなく、冷たい水が降ってきた。大地が、遙風にシャワーを向けたのだ。大地は蛇口をひ ねり続けた。水圧が上がる。
「大地さ」
降る水に溺れそうになりながら遙風は声を上げた。
「水が欲しいんだろう」
流水は驚くほど冷たく、あっというまに遙風の熱を奪っていく。
「やめ……」
やめて欲しいと言おうとして、水が気管に入り、遙風は激しく咳をした。うつむいて、痙攣のように激しく肩を震わせると、大きな手が髪を掴んできた。
無理矢理上げさせられた顔の正面にシャワーヘッドがあった。
驚きに眸を見開く暇もなく、そこから噴出する水は容赦なく呼吸器に入り込む。
―――息が出来ない。
「洗いたいんだろう。好きなだけ洗わせてやる」
袖の先も、ズボンの裾も、上等な靴下もびしょ濡れにしながら、大地は遙風を溺れさせた。
粗末な風呂の洗い場が、シャワーに叩かれてざーざーとうるさい音を立てる。
「………っ………げ……あ……」
冷えと苦しみと酸素欠乏で、遙風は気が遠くなってくるのを感じた。
ざーざーという水の音が、何重にも歪んで聞こえて、うるさかった。
ざーざー。
ざーざー。

 

 それがいつだったのか。はっきりとは思い出せない。
覚えているのはその日が雨だったということ。これだけは、とてもよく覚えている。
ざーざー。ざーざー。
暗い空から、ひたすらにノイズのような雨が落ちていた。ざーざーという雨音が、一日中空気を満たしているような日だった。
大人用の傘を差して、水たまりをよける遊びをしながら遙風が帰り道を歩いていると、道に少年が一人立っていた。
こんな日だというのに傘も差さず、胸に紋章のある制服も、灰色の髪もぐっしょり濡れていた。頬に流れる雨水にかまいもせず、両手を握りしめて、道の向かいのアパートを一心に見つめていた。
「…………」
彼が中学生なのか高校生なのか、その時の遙風には幼すぎて判断がつかなかった。
ただ、こまったな、と思った。遙風も、少年からすこし距離を取ったところで立ち止まった。
ざーざー。ざーざー。
少年が暗い瞳で見上げているアパートは、遙風の帰る家だった。
家に帰るためには、この人の前を横切って、かんかん音が鳴るアパートの階段をのぼらなくてはいけない。
「…………」
横切っても、怒られないかな。
なんとなく、その少年が怖くて、しばらく遙風は遠くから彼を見ていた。
ざーざー。ざーざー。
今にして思えば、その少年の持つただならない雰囲気に気圧されていたのだ。ほとんど睨みつけるようにして、暗い雨の中、自分の家を見ている少年。
しかししばらくといっても我慢できる時間はそう長くない。雨は重たく、空は今にも落ちてきそうで、あたりは一面冷えきっていた。
「くしゅん」
寒くって、遙風はくしゃみをした。
その声に、びしょ濡れの少年は弾かれたようにこちらを向く。
少年と遙風の目が合った。
ざーざー。ざーざー。
遙風はなりふり構わず駆け出した。少年の前を横切って、水たまりの中に足が入ってしまうのも気にせず一気にアパートの階段まで行き、甲高い音を立てて二階に上がった。首から紐で下げていた鍵をTシャツの内側から引っ張り出し、なんとか鍵を開けると慌てて家に入る。
ばたん。
薄暗い家の中に帰ってくると、息が上がってぜいぜい言っていた。遙風はがちゃんとここちら側から鍵をかけ直すと、やっと少し安心した。
心臓がどきどきどきどき言っていた。
どうしてだか、あのびしょ濡れの人が家まで追いかけてくるような気がしたのだ。
「…………」
けれどそんなことはなかった。
家の中には誰もいなくて、暗くて、雨の匂いがした。
ざーざー。
「…………」
遙風は黙ってびしょびしょになってしまった靴を脱ぐと、傘をドアに立てかけて部屋の中へ入った。
「…………」
外から見えないように、四つん這いになって畳の上を進む。窓まで行くと、そうっと道の方をのぞいてみた。
少年はさっき遙風が見た姿と寸分違わず道に立っていた。
目が合う。
「!」
遙風は慌てて頭を引っ込めた。
(こっち……見てる……)
怖いのと困ったのとで、遙風はどきどきがおさまらなかった。今日はたぶん、朝まで家にひとりぼっちだ。
(こまったなぁ……)
「くしゅん」
またくしゃみが出た。遙風は冷蔵庫から牛乳を出すと、マグカップに注ぎ電子レンジにかけた。誰もいない時に寒かったりおなかが空いたりしたら、とりあえず温かい牛乳を飲む。そうすると少し楽になるということを遙風は最近覚えたばかりだった。
大人用のものしかないので、遙風が持つととても大きなサイズのように見えるカップから牛乳を飲みながら、時折窓の外をちらちら見た。あの人はびしょ濡れのまま、ずっと立っていた。
ざーざー。ざーざー。
気がつくと、遙風は畳の上に寝ころんでいた。いつの間にかうとうとしてしまったらしい。
(…………)
「くしゅん」
くしゃみを一つしてから、遙風は目をこすりながら窓の外を見た。
もういないかな。
そう思って見たのだ。
しかし、少年はまだそこに立っていた。雨は相変わらず止んではいなかった。ざーざーと音を立てて、道路や少年の上に降り続けていた。
(…………)
だいじょうぶなのかな。
遙風はだんだん、あの少年のことが心配になってきた。部屋の中は寒くて、体がぶるっと震えた。隅に丸められている毛布をひっぱってきながら、
(あのひと、さむくないのかな)
そう考えた。
どれだけ長い時間、あそこでああやって雨に打たれているのだろう。
毛布にくるまって、遙風は窓辺へよった。少年を見る。彼もじっと、こちらを見上げてくる。
しばらく、二人は無言で見つめあった。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
その間を無数の雨粒が、線のようになって落ちていった。
「くしゅん」
遙風はくしゃみをして、ずるずるとしてきた鼻をこすった。ぶるっとまた体が震えた。
さむい。
(……あのひとは、さむくないのかな)
ちらりと玄関の方を見る。
質素な靴箱に立てかけられたビニール傘が一つ。それは今日遙風が差してきた傘だ。そしてもう一つ、赤色の傘がたたきの上に転がっていた。
(…………)
それは真っ赤な傘で、安物だがビニール傘よりは値が張る。遙風の母親の傘だった。
「…………」
遙風はビニール傘を取りあげてじっと見る。
これはビニール傘だがよい傘なのだ。どの骨もおかしくなっていなかったし、大人用の傘なのに軽いし、なによりボタンを押すとバネがはじけて一瞬で開く。ある日気がつくと玄関に置いてあった。母に会いに来た男たちの誰かが忘れていったものなのだろう。
「…………」
よい傘だが、しかたがない。赤い傘は母のものだから。
遙風はビニール傘をぐっと握りしめると、ぐしょぐしょの靴をつっかけ、赤い傘を借りて外へ出た。むわりと雨のにおいが濃くなって、遙風はまたひとつくしゃみをした。
ざーざー。ざーざー。
かつかつ音を立てて外階段を降りる間、あの少年はじっと遙風を睨みつけていた。遙風はすごく緊張した。そんなに見られながら階段を下りるのは初めてだった。
地面に降りて、少年と向かい合う。彼は相変わらず無表情に、びしょ濡れで、しかし絶対に遙風から視線を逸らそうとしなかった。
遙風はひるんだ。少年のその眸が怖かった。きびすを返して逃げ帰ろうかと思った。そして絶対にそうするべきだったし、そうするのが正しかった。
けれど。
けれど。
「くしゅん」
くしゃみが出た。
「…………」
それで遙風は思い出したのだ。自分が何故ここへきたのか。このひとにどうして自分のビニール傘をあげようと思ったのか。
(さむくないのかな)
ざーざー。ざーざー。
(こんなびしょぬれで、このひとはさむくないのかな)
頬に張り付いた髪も、握り拳から滴る雫も、なんにも構わずにこのひとは立っているけれど。
きっと、寒いはずなんだ。
「あの……」
遙風は少年を見上げて、ビニール傘を差しだした。
「これ……」
「…………」
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
雨が無数に、二人の間にある空気を切り裂いた。
少年の顔に初めて表情が浮かんだ。
それははっきりとした、何も隠そうともしない、憎しみの表情だった。
苦虫を噛み潰したかのように、ぎりっと音がしそうなほど歯を食いしばった。美しい顔を憎悪に歪めて、彼は手を振り上げる。
遙風の眸に少年の手が映り込んだ。
遙風はその時、生まれて初めて憎しみの火を見た。それは暗く暗く、そして青かった。瞳の奥に宿る、呪いの炎。
ばん!
ばしゃっと音を立てて、遙風は道に倒れた。呆けて、少年を見上げる。雨が遙風の上にも降り注ぎ始めた。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
雨は氷のように冷たかったが、左の頬だけはかっかと、まるで少年の炎が移ったかのように熱かった。鼻と口の端から、雨とは違う赤くて温い、粘ったものが流れていた。
小さな遙風を力一杯ぶった少年は、白い顔をさらに真っ青にしてぶるぶると震えていた。寒さで震えているのではない。もちろん、自分の行為に怯えてでもない。
怒りに、その身からこぼれ落ちそうなほどの怒りと呪いに、少年は震えていた。
「…………」
遙風はただ血を流して少年を呆然と見上げ、少年は自分の体躯の震えが収まるのを待った。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
「…………」
少年は右手を左手で軽くさすり、突然、
「あっ」
道に落とされていた赤い傘を手に持った。
「それ……」
無表情に戻り、まるではじめから自分のものだったかのような自然さで傘を差す。
そして無言できびすを返した。
「…………」
遙風の声にも、遙風自身にも頓着することなく、赤い傘を差した少年は道を遠ざかってゆく。
遙風はびしょ濡れになって、その赤色が遠ざかるさまを見つめていた。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
道に転がったビニール傘が、雨に叩かれて泥水の中に青く沈んでいた。



ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
このアパートの風呂場は狭く、男二人が入りこめばそれはもう余裕などほとんどなく、
「あ……はぁぁ……あ……っっ」
何が行われようと、妙に体躯を動かせば、あっという間に痣だらけになりそうだった。
「ん……く……ふ……」
歯を食いしばって震えに耐える。
シャワーの冷水はずっと出しっぱなしで、遙風の気が遠のく度、大地がその水を使った。それでも遙風がはっきりしない時は、大地は乱暴に遙風の髪を掴み、浴槽の水たまりに顔を押しつけたりした。
さーざー。ざーざー。
シャワーが立てる音のせいか、冷たい水の震えのせいか、遙風は繰り返し繰り返し、あの雨の日のことを夢に見た。
小さい遙風は背が伸びて弟が出来、ずぶ濡れの少年は立派な大人の男になって、雨の中で立っていたりしなくなった。
そのかわりに。
大人の男になった少年は、あの日の炎を眸に宿したまま、強い力を手に入れて、延々と復讐を続けていた。
何度も何度も。何度も何度も。
「大……地さ……あ、」
後ろ手に絡め取られた腕と、背中に押しつけられる胸板が、冷えきった身体に熱くて、熱くて、遙風は涙を流した。涙は温くて、太股の内側を流れ落ちていく体液とは比べるべくもなくあっさりしていた。
首筋につけられた歯形と、赤い痣となった口づけの跡。
「も……や……やだ……大地さ……大地さん!」
遙風の悲鳴じみた懇願に、
「いあ!」
大地は無表情に体位を変えた。
冷たい洗い場の床に遙風を乱雑に引き落とし、その上にのし掛かる。そして。
「黙れ」
そして両手で遙風の首を絞めた。
「…………!」
体重をかけて、気管も血管も何もかも押し潰そうとするかのように。
「……! ……!」
遙風は眸を見開き、ぶらぶらする手を空間にさまよわせた後、なんとか首にある大地の手に取り縋った。だがそんなことで彼の手を振りほどくことなどできない。爪が彼の指の皮膚を空しく掻くばかりだ。
「……! か……! ……!」
口の端からは唾液が垂れて、目尻からは涙が伝った。
大地は遙風の中に押し入っていて、二人は繋がったままだった。
涙で視界がかすみ、酸素欠乏か血流が止まっているのか、焦点が定まらなくなってくる中で、遙風は大地の 眸を見た。
そこには初めてぶたれた時と同じ、憎悪の青い炎に捲かれた暗い暗い深淵があった。
あれから幾重にも見ることになったそれは、母が死んだ後も全く変わらない強さで、いやむしろ年月を重ねるごとにより強く、大地の奥で燃え続ける。
「………ぃ……ち……さ………」
―――昔読んだ絵本の中で。
賢いきつねは言っていた。
『大切なものは、眸に見えない』
それではこの眸に映る総てのものは、果たして一体何なのだろうか。
いったい、いったい、これは。
何?
「……だ………」
そう、大切なものは眸に見えない。
本当は。
大切なものなんて、この世界の、何処にも存在しない。
きつねが教えてくれる前から、本当は遙風も知っていた。
何故なら、一度だって、大地の眸に、「本当に」遙風が映っていたことなどなかったからだ。
見えるものは大切ではない。
大地はずっとずっと、遙風を通して、遙風の後ろの眸に見えないものを見ていたのだ。
遙風の背後にいる二人の人間を見ていたのだ。
母と。父。
眸に見える自分などは大切ではない。大地とってはその後ろの『大切なもの』がすべてだった。
眸の奥に炎を抱いて、遙風の後ろの見えないものに、延々と、繰り返し繰り返し、いつまでもいつまでも大地は、復讐を続ける。
「―――」
大地の唇が、何か言葉を紡いだような気がした。しかし遙風の耳にはもう激しい耳鳴りしか聞こえなくなっていて、彼が何を言ったのか全く分からなかった。
きっと『誰か』の名前でも呟いたのだ。
そう遙風は思った。
そしてそれは、確実に、自分の名前では、ない。



浴室で、目が覚めた。
硬い洗い場の上で投げ出されていた手脚はぎしぎしとして、容易には動かなかった。髪も床もまだ濡れていて、痛めつけられた体躯が寒気と吐き気に小刻みに震えていた。
虚ろに見やると、向こうの畳の部屋で、大地が横になって眠っていた。
それは珍しいことだった。彼は大抵、行為が済むと遙風が目を覚ます前にいなくなっていた。
「…………」
遙風は立ち上がろうとした。しかし体を動かした途端、視界がぐるぐると回って、眼を開いているのにあたりが真っ暗になった。口元を必死に押さえてしゃがみ込む。
「……っ……っ…………はぁ…………」
肩で息をして、症状が収まるのを待った。壁にもたれ掛かるようにして、なんとか立つ。
ゆっくりと、目眩を起こさないように、なんとか大地のもとへと近づく。
大地は身なりもすっかり綺麗に整えて、静かに眼を閉じていた。
「…………」
窓の外は落ちてきそうな曇天だった。まだ昼の時間帯だったが、明かりをつけていない部屋の中は薄暗い。
遙風は濡れた髪のまま、しばらく彼の顔を見ていた。そして、またゆっくりと壁づたいに台所まで行くと、出しっぱなしになっていた包丁を手に持った。
「…………」
包丁の刃は銀色で、とても冷たそうだった。
小さい遙風は母親のセックスを何度か見たことがあった。何度か、ではなく、たくさん、だったかもしれない。
ここによく似た、ここよりも粗末なアパートで、母は幼子に構わず男たちとセックスをした。まるで遙風などここにいないかのように、母と男たちは夢中でセックスをしていた。自分は透明人間になったみたい。そう、小さい遙風は時折思った。
よく考えれば、昔から自分は透明人間だったのだ。包丁を掴んで大地に歩み寄りながら、遙風は思った。
この人も自分を透過して、後ろに別の人を見ている。
きつねは大切なものは目に見えないと言った。
しかし自分は、目に見えるけど無色透明なのだ。ふしぎなことに。
母のセックスを見て知っていたから、大地に初めて犯されたときも、あああれか、と思ったのだ。
あれ。そう。あれ、か。
「…………」
遙風は大地の横へ座り込んだ。包丁を持った手を上げる。
母はいつだって、行為の最中は卒倒せんばかりの歓喜に打ち震えていた。涙を流して、悦びに何もかも委ねて、リズムに合わせて半狂乱に何か叫んでいた。
「……………」
何と叫んでいたんだっけ。彼女は。
彼女は。
彼女は、確か。
「すきよ! すき! すき! ああ、すき!!」
遙風の耳に、鮮明に母の高い声が聞こえた。
律動とともに。強く。ただ強く強くそれだけを繰り返し。
繰り返し。
「…………」
遙風は包丁を大地の上にかざして、しばらくその状態で静止していた。
「…………」
しかし、ゆっくりとその手を下におろした。力を緩めた手から、ぽとりと刃物が畳に転がった。
「…………」
すき。
遙風は身体の震えが酷くなるのを感じ、自分で自分を両手で抱いた。それでも震えは収まらない。歯の根が噛み合わずにガチガチ言った。
「………う……」
視界が滲んで、大地の顔が歪んだ。涙の雫が一つ、遙風の白い頬に落ちた。
歯が鳴るのが嫌で、唇を強く噛む。
すき。
「…………っ……」
すき。
ぎりりと強く歯を噛みしめると、血の味がした。大地に噛まれた舌から血が出ていた。
「う……っ……う……」
『大切なものは、眸に見えない』
優しいきつねは、そう嘘をついたから。
大切なものなど何もなければ、どんなことが起こったとしても。
この人も、自分も。二人の間のやりとりも、行為も。
何一つ、重要じゃない。
何一つ、大切ではないから。
「う………う………っ……う」 
痛くて、体中が痛くて痛くて、遙風は両手で顔を覆い、泣いた。
どんなに身体が痛かろうと、胸が、痛かろうと。
本当に大切なものなんて、この世界の何処にも、存在などしないのだ。

おわり


-------------------------------------------------

このお題を見たときに「な、なんというエロス!!」と思いましてですね、
「これはもう……受けて立つ、しかない!!!」
という気持ちで真っ向勝負を挑んだのです。が。
\(´∀`)/

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